無言の挑戦状


 画面の中の数字がかすむ。ガクッと頭が落ちて我に返った。
いけない、少なくともこれだけでも完成させなくては、外で頑張っている皆に申し訳がない。
ここ1週間近くテスト勉強の寝不足がたたり、何度も舟をこいでは目が覚めるの繰り返しをしていた。
暖かいのが悪いんだよな、いっその事ストーブを切ってしまおうか。
そう思ってみたものの、外は雪でも降り出しそうな雲行きで、この薄い壁の団室ならあっという間に室内も酷寒地獄になってしまうだろう。
これが応援で身体が温まっている状態なら問題ないが、椅子に座ってキーボードを叩いているだけの自分ではきっと耐えられない。
それに外から帰ってきた皆が、団室に入って極寒じゃ可哀想だ。

それにしも、何故自分は急に内務になったのだろう?
一昨日、急に一本木先輩から電話でシフトの変更が告げられた。
今日はテストの終わったばかりの日曜日で、やっと応援に回れると思ったのに……
上からの命令は絶対で、一応これは自分の仕事でもあるから人に頼む事もできない。
新人の頃は雑用をこなしているだけだったが、2年目からは団員達のシフト組みと会計を任せられている。
2年目とはいえ、まだまだひよっこの自分がこんな重大任務を請け負っていいものなのか心配だったけど、要は数字が扱うのが面倒なので、数字が得意そうな自分に押しつけようという魂胆らしい。
それでも数字を組み替え並べる作業は嫌いじゃないし、会計で上手く数が合った時や、団員全員の希望を取り入れたシフトが組み上がった時は説明しようがない快感が得られるのに。
一度、斉藤先輩にそう説いてみたけど、もの凄く嫌そうな顔をされた。
そうか、そんなに皆数字が嫌いか!

しかし今日はまだ月も半ば、来月のシフトを組むには早すぎるので、家から持ち込んだノートパソコンに淡々と購入項目と代金を打ち込んでいた。
何度目かの舟漕ぎを打ち破ったのは、外からの冷たい空気だった。

「はじめクン、お疲れさま」
内気の暖かさで曇らせた眼鏡のまま、白いケープを羽織った神田さんがちょこんと立っている。
「押忍!神田さん、お疲れさまです! 外は寒かったでしょう」
「うん…でも応援してると全然平気」
「自分だけ楽してるみたいで、申し訳ないです。 そういえば、他のチアの皆さんは?」
ゆっくりと机に近づいてきた神田さんは、ひょいとディスプレイを覗き込んだ。
まだ曇った眼鏡で目は見えないものの、数字の羅列にちょっとだけ顔を曇らせたように見えた。
「うん…… ちょっと私だけ、忘れ物を取りに来たの」
「でも、神田さんが来て下さって助かりました。
暖かくて、眠ってしまいそうになっていたので、目が覚めましたよ。
何故か今日はいつも以上に忙しいみたいですね。皆さん誰も帰って来ないんです」
ぼんやりとディスプレイを見ていた神田さんが、その言葉でパッと自分を振り返った。
「なぜか…?」
「ええ、日曜でもこんなに忙しいものでしたっけ?」
おもむろにケープの内側から綺麗に包装された袋を差し出した。
キラキラ光る透明のビニール袋の中には、丸くコロコロしたチョコレートがいくつか入っている。
神田さんは差し出したのと逆の手で、眼鏡のブリッジをキュッと持ち上げた。
「脳に栄養!糖分補給! 眠いのはきっと糖分が足りてないんだよ」
「食べて…いいんですか?」
「ダメって言ったらどうするの?」
「もの凄く、悔しい顔をすると思います」
「あーはじめクンの悔しい顔見たいなー」
クスクス笑っていた神田さんは、両手でもう一度ハイと袋を差し出す。
自分はそれを礼を言って受け取ると、複雑に結ばれたリボンをほどこう……と努力はした。努力は。
「こ、これどうなっているんですか?」
あまりに複雑かつ綺麗に結ばれているので汚く崩してしまうのが勿体なくて、どうしても指がうまく動かない。
スッと視界に入ってきた細くて白い指が、1本の短いリボンを引っ張りだした。
「ここを引っ張るだけだよ」
どうしようと迷う。そのリボンをつまめばいいと分かっているんだけど。
「ちょっとー 開けるのくらいは自分でやってよね」
その声にせかされて、慌ててリボンをつまむと神田さんの指に触れて一瞬ドキリとするが、その指の冷たさに我に返る。
自分が眠そうに温かな部屋にいた間も、神田さんは外で頑張っていたのだと気が付いて、やましい気持ちが吹き飛んだ。

袋から取り出したチョコは丸くて周りにココアの粉が振りかけてある、たぶん一般名称は「トリュフ」とかいうやつだ。
やっぱり、名前の由来は三大珍味から来ているのだろうかと、そのチョコをつまんだまま思案していると、神田さんに注意されてしまった。
「別に毒なんか入ってないからねっ!」
「いや…トリュフって、名前の由来は……」
「いいから食え!!!!」
神田さんがチョコを摘んでいた自分の手を無理矢理口に押し込んだ。
「どう?」
あんなに乱暴に食べさせたくせに、不安そうに首をちょこっとかしげた。
口の中に入ると体温でチョコはすぐにとろけて甘く広がっていく。
「あ…甘いです、すっごく」
「チョコの感想で”甘い”はないと思うよ」
「美味しいですよ、すっごく」
「本当?私の手作りなんだよ、それ」
ちょっと口ごもりながら、俯いた。

「神田さん、腕を上げたんですねぇ…」
今まで神田さんの手料理で何度か死にそうな目に合っていた自分は内心「先に言ってくれ!」とも思いつつも、人が食べられるレベルどころか、売り物になっててもおかしくない出来に思わず感嘆の声を漏らした。
「わ、私もう戻るね!」
じゃあと慌てて片手を上げると、くるりときびすを返してドアにダッシュしていったが、途中のゴミ箱を蹴り倒し、あわあわしながらそれを直し、勢い付きすぎてドアにぶつかって痛てて…と一連のドジっぷりを見せつけ、嵐のように帰ってしまった。
倒れたゴミ箱も、ドアにぶつかった時も声をかけようと思ったが、あまりの慌てっぷりにあっけにとられて、荒々しく開けられた扉が「ガチャン」と閉まったときにようやくため息に似た長い息を吐いた。

「あれ?神田さん、忘れ物って何だったんだろう…?」
苦いコーヒーを入れ、再び作業に戻ってようやく気が付いた。
本当に必要な事ならば、また戻ってくるだろうし、その時に改めてチョコの御礼を言おうとコーヒーを一口飲む。
甘いチョコレートと、苦いコーヒーはよく合っていた。
それから1時間程たって、一通りの入力が済んで背伸びをする。
結局神田さんは戻って来なかったし、そんなに大切な事ではなかったのかもしれない。
最後にもう一度ディスプレイに向かうと、この仕事の締めくくる為書類に今日の日付を入力する。

__2月14日

今日って、何かの記念日じゃなかったっけ?
誰かの誕生日?……いや違う!
「バレンタインだ……」
そりゃそうだ、日曜日のバレンタインじゃ、忙しいに決まっている。
他の団員達は、この寒空の元あちこちの女の子の応援に駆け回っていることだろう。
「クスクスクス…」
いつの間にか、声に出して笑みが漏れている事に気が付いた。
完全にやられた!
意識しないうちにバレンタインチョコを食べさせられるなんて、田中一の一生の不覚。
自分に対する挑戦なんですか?神田さん。
分かりました!その挑戦受けようじゃありませんか!
立派に応えてみせますよ!

って…え?この場合、どうやって応えたらいいのでしょうか?









田中、早く気付け!
それは挑戦とかじゃないから!鈍いにも程があるから!
裏で暗躍してるのは沙耶花さんです。あそことあそこで活躍してます。

バレンタインものと最後までバレないようにしたかったのですが、どうなんでしょう。


2009.02.11

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