残り香

 前日遅くまで仕事があったレンが起きたのは昼過ぎだった。リビングへ降りてくると、日が差し込んだ部屋には誰もおらずその強い日差しを存分に浴びたソファーだけが佇んでいる。
 6人家族のこの家は全員仕事を持っているとはいえ、誰か一人はリビングに居座っていることが多い。そのうちの”一人”は大抵の場合この家の長男でもありこのソファーの主のカイト。
なぜかこのソファーを気に入って、三人掛けソファーの向かって右端の席を自分の領土のようにいつも占領しているのだ。
 レンはその領土に侵入しないように真ん中に腰掛けてリモコンを手に取るとテレビのスイッチを入れた。昼過ぎのワイドショーは芸能人の不倫の話題が垂れ流されていてレンは軽くため息を吐くとそのままブルーレイプレイヤーの電源も入れる。この前途中まで見たライブが再生された。

 その音に誘われるようにリビングの入り口から足音が近づく。この家で一番重い足音。
 彼は白いロングコートをなびかせて、軽く謝りながらわざわざレンの前を通ってソファーの一番奥の定位置に腰をかけた。長い裾を捌く姿は手慣れている。それと同時にふわりと甘い香りが漂って鼻をかすめてすぐに消えた。その匂いに嗅ぎ覚えがあったレンはカイトの動きを視線で追う。カイトは手にしていた楽譜に目を落としていた。
「前から気になってたけど、カイ兄香水つけてるの?」
「うん。軽いやつだけど」
 その答えにレンは軽い衝撃を受けていた。日頃おしゃれに全く興味がなくメイコに尻を叩かれてようやく服を買いに行くような人が、それも放っておくと同じ服を7枚買ってくるような人が、蝶々結びがうまくできなくてリボンタイがひん曲がっても平気でいる人が、V3になって塗ることになったマニキュアを面倒臭いとメイコに塗らせている人が、香水を!付けているとか?!

「カイ兄ってさ、自分を飾る事に全く興味ないかと思ってたから香水ってイメージなかったんだけど…」
 辛辣なレンの言葉にカイトは苦笑した。
「まあね、僕もきっかけがなければ付けることはなかっただろうし」
「きっかけ?」
「昔収録スタッフに『機械油の匂いがする』って言われた事があって、それで気になって」
「機械油?どんだけ昔のロボットを想像してんだ?!」

 メイコを始めとしたボーカロイドたちは高性能のアンドロイドで、表面はすべて人工皮膚で覆われていている。タンパク質で作られた表皮は人間とほぼ同じ構造であり、機械の構造は内部の深いところに仕舞われているので潤滑油などの匂いが外に漏れることはなく、むしろ人間などに比べたら無臭と言ってもいいほどであった。特に初期型のメイコとカイトは医療用アンドロイドの素体を流用している事から、完全に無菌で無臭なのだ。

「今思えば単なる嫌がらせだったんだろうね。まだ起動したてだったから気にしてたけど」
「今だったら?」
「無知ってかわいいね」
 カイトは軽く唇を横に引く。”にやり”と”にこり”の間のような笑顔。柔らかな声の言葉と笑顔とその裏の感情のギャップで逆に怖いとレンは思った。
「カイ兄って割と黒いよね」
「何を言ってるんだい?僕は清涼感のある白と青でできてるんだよ?」
 そう言ってカイトは自分の胸に手をやって微笑んだ。レンはその胡散臭さに眉をひそめる。人畜無害そうな外見と裏腹に一筋縄でいかない中身を持つこの兄がほんの少しだけ苦手だった。

 カイトの香水の香りを他にどこかで嗅いだ事があるような気がして、記憶をたどり寄せてようやく思い出したレンはその姿を頭に思う浮かべたまま尋ねた。
「そういえばメイ姉も香水ってつけてるの?」
「うーん…仕事以外では記憶にないけど。めーちゃんあまり強い匂い好きじゃないし」
「え?!」
 レンは記憶の中の香りを思い出す。そしてカイトを見上げて穴があくほど見つめた。
「新しい柔軟剤じゃなくて?この前買ってきたのが花の香りが強くて困ってたけど…」
「いや柔軟剤じゃないって……」
 さっきまで薄黒いオーラを出していたのに一気に所帯じみた主夫のようなことを言い出す。
「でもメイ姉、強い匂い苦手なのにカイ兄は香水つけてるんだ」
 メイコの為なら何でも甘やかす兄が、彼女が嫌がる事を積極的にしている事が不思議だった。
「うん、つけてみたらいい匂いだし周囲の人にも好評だったから。そんな事より、もしかして臭い?」
「いやそんなことはないけど、カイ兄香水どこにつけてんの?」
「脚」
「あしー?」
 手首などの回答を期待していたレンは返って来た思わぬ場所に小首を傾げた。ミクやルカが話していたのをうっすら聞いたくらいでレンも香水については詳しくは知らなかったが、香水をつける場所として手首がメジャーだと思っていた。
「そう、この辺」
と言ってカイトは座っている自分の濃紺のズボンに包まれた太ももの内側を指差した。
「うわー」
「なに?」
「それ言わない方がいいよ」
「え?なんで。ほんのり香っていいよ?」
 確かに歩く時にロングコートがふわりと揺れる度に香る、カイトに合った爽やかな香りは悪くはないとは思ったが…レンは顔を眉をひそめて言うべきか言わざるべきが一瞬悩む。そしてそんな悩みを抱えさせている張本人のカイトを睨んだ。いきなり睨まれたカイトは困惑したように小さく首をかしげた。
「あのさ……たまにメイ姉からカイ兄と同じ匂いがするんだけどって言えば分かる?カイ兄と同じく動くとふわりと下から香る程度。さっきまでは、メイ姉も同じ香水つけてるのかと思ってたけど…」

 メイコは自分では香水は付けていない、だけどカイトと同じ香りがする。それは…カイトの付けた香水が擦れて移ったのだとしたら?
 レンの言葉の意味を瞬時に理解したカイトが絶句して固まった。レンはため息を吐いた。
「手首とか言っておきなよ、脚はまずいよ」
「そう……します…」
 カイトがひねり出すような声で同意した。

「あら、レンもここにいたのね」
 そんな気まずい雰囲気を全く知らずに軽い足取りでメイコが笑顔でやってくると、木製のボウルを差し出した。中には何種類かの洋菓子が入っている。
「はいオヤツ。みんなの分のお茶淹れるわね」
 そう言ってメイコは踵を返せばちょうど座ったレンの顔の辺りでふわりと香る甘い匂いは、隣にいる男から先ほど嗅いだものと同じだ。
 先に気が付いてそっぽを向いているカイトをレンが再び睨んだ。

□□□

 数週間後。 
 カイトはソファーで時間を持て余していた。
 彼に提供される楽曲には物語調のものや民族調のものが多く難解な歌詞が多かった。今回の曲もその一つでそれを一つ一つ読み解いて自分なりの解釈を考えるのが好きだったのだけど、今回は親切なプロデューサーからの詳細な”世界設定メモ”のメールによって必要がなくなってしまったのだ。プリントアウトした楽譜とメモをローテーブルに投げ出した。
「解釈考えるの結構好きだったんだけどな…」
 カイトはぼんやりと目的もなく楽器のカタログをめくる。解釈の時間に割り当てていた数時間は丸々暇になってしまった。ボイトレするにも地下のレコーディング室はリンとレンが使用中で、さっき様子を見に行ったら楽しそうに二人で跳ねながら歌っていたのでそっとしておくことにした。

 カイトの元にメイコがやってくると、当たり前のように隣に座る。
「お仕事はどうしたの?」
 カイトは無言でテーブルの上のメモの紙を指差した。メイコはそれを手にとって読むと軽く微笑んだ。
「これカイトが言ってた解釈と同じじゃない」
「うん、まあそれはいいんだけど…」
 なんとなく歯切れの悪い会話にメイコは小首をかしげ、他に何か話題を探す。
「そういえば最近カイト香水つけてないのね」
「ああ…うん。そういえば、めーちゃん強い匂いって苦手じゃなかったっけ?」
「フローラルが苦手なのよね。でもカイトの香水は清涼感あって好きだったけど」
「僕も気に入ってたんだけど、困ったことになるんだよね。例えば…」
「たとえば?」
「今から起こる事とか」
 メイコの手を取ると指を絡め取って繋ぐ。えっ?と驚いた彼女の唇に口付けた。

 

2022/03/12
カイトの香水は自分でも気に入ってるけど完全営業用
お客さんから好評なのでつけています